3月12日月曜日 リチャード三世①
「イギリス史」より「リチャード三世」にでてくるエピソード
ほぼ、芝居の通りの流れです。第一次内乱~第二次内乱は「ヘンリー六世」です。
1475年 国王エドワード四世はブルゴーニュ公と組んでフランスに戦争をしかけた。
フランス王は妥協してエドワード軍を撤退させた。
1477年 ブルゴーニュ公が殺されると、相続人である娘との再婚ねらった弟クラレンス公を逮捕
1478年 クラレンス公を反逆罪で処刑
その後平和が続いたが、
1483年 国王40歳で亡くなる。死因は放蕩といわれる。
ここから第三次内乱
グロスター公リチャードは(以下リチャード)、兄エドワード王の後継者である2人の息子のため、摂政に指名されていた。
遺児の他、ウッドヴィル、グレイ家中心の、エドワード四世関連の貴族が宮廷でハバをきかしていたが、
政治の主導権をリチャードがとろうとした。
リチャードはバッキンガム公ヘンリー・スタフォード(エドワード三世の六男グロスター公の血統)の支持をえて
王位継承者エドワード(年は中1くらい)をロンドンにつれていく途中で、リヴァーズ卿を投獄
5月 摂政に承認されると若王エドワード五世を戴冠式は行われないままロンドン塔に隔離
リヴァーズ伯と王の異父兄弟リチャード・グレイは処刑、トマス・グレイは国外追放
6月13日 宮廷派とグロスター公の仲介役であった(つまりリチャードと仲良しだった)ヘイスティングズ卿もつかまり殺された。
全部排除したリチャードは一説教師を使って、兄エドワード王が父ヨーク公の庶子(メカケの子)にすぎず
自分こそが嫡子(王位継承者)であると公言させ、バッキンガム公にロンドン・シティでの歓呼を工夫させた。
6月25日 議会は若王の廃位とリチャードの登位を宣言、
リチャード三世戴冠(1483~85在位)
リチャードの謀略、殺人、家計断絶のシナリオを知る貴族は王位争いに口をはさまなかったが
バッキンガム公は、はじめは自らの王位継承、
のちランカスター家リッチモンド伯ヘンリーの登位を狙っているとみられた。
バッキンガムの蜂起計画は大雨で足止めくって捕らえられ、
11月2日 ソールズベリーで殺された。
リッチモンド伯はイングランドに上陸したが不利とみて退却
ロンドン塔内の王子たちは殺されたとみられる。
1484年1月 兄の遺児エリザベスと再婚を企てたがまわりから止められ断念
一方リッチモンド伯ヘンリーはエリザベスとの婚約成立
1485年8月 上陸したリッチモンドの元へウェールズ各地から支持者が殺到
ボズワース戦でリチャード軍と戦った。
国王軍のスタンリー卿が寝返り、ノーサンバランド軍は戦わなかった。
リチャード三世は支持率を失ったので政権維持ができなかった。
「イギリス史」山川出版社
ほぼ、芝居の通りの流れです。第一次内乱~第二次内乱は「ヘンリー六世」です。
1475年 国王エドワード四世はブルゴーニュ公と組んでフランスに戦争をしかけた。
フランス王は妥協してエドワード軍を撤退させた。
1477年 ブルゴーニュ公が殺されると、相続人である娘との再婚ねらった弟クラレンス公を逮捕
1478年 クラレンス公を反逆罪で処刑
その後平和が続いたが、
1483年 国王40歳で亡くなる。死因は放蕩といわれる。
ここから第三次内乱
グロスター公リチャードは(以下リチャード)、兄エドワード王の後継者である2人の息子のため、摂政に指名されていた。
遺児の他、ウッドヴィル、グレイ家中心の、エドワード四世関連の貴族が宮廷でハバをきかしていたが、
政治の主導権をリチャードがとろうとした。
リチャードはバッキンガム公ヘンリー・スタフォード(エドワード三世の六男グロスター公の血統)の支持をえて
王位継承者エドワード(年は中1くらい)をロンドンにつれていく途中で、リヴァーズ卿を投獄
5月 摂政に承認されると若王エドワード五世を戴冠式は行われないままロンドン塔に隔離
リヴァーズ伯と王の異父兄弟リチャード・グレイは処刑、トマス・グレイは国外追放
6月13日 宮廷派とグロスター公の仲介役であった(つまりリチャードと仲良しだった)ヘイスティングズ卿もつかまり殺された。
全部排除したリチャードは一説教師を使って、兄エドワード王が父ヨーク公の庶子(メカケの子)にすぎず
自分こそが嫡子(王位継承者)であると公言させ、バッキンガム公にロンドン・シティでの歓呼を工夫させた。
6月25日 議会は若王の廃位とリチャードの登位を宣言、
リチャード三世戴冠(1483~85在位)
リチャードの謀略、殺人、家計断絶のシナリオを知る貴族は王位争いに口をはさまなかったが
バッキンガム公は、はじめは自らの王位継承、
のちランカスター家リッチモンド伯ヘンリーの登位を狙っているとみられた。
バッキンガムの蜂起計画は大雨で足止めくって捕らえられ、
11月2日 ソールズベリーで殺された。
リッチモンド伯はイングランドに上陸したが不利とみて退却
ロンドン塔内の王子たちは殺されたとみられる。
1484年1月 兄の遺児エリザベスと再婚を企てたがまわりから止められ断念
一方リッチモンド伯ヘンリーはエリザベスとの婚約成立
1485年8月 上陸したリッチモンドの元へウェールズ各地から支持者が殺到
ボズワース戦でリチャード軍と戦った。
国王軍のスタンリー卿が寝返り、ノーサンバランド軍は戦わなかった。
リチャード三世は支持率を失ったので政権維持ができなかった。
「イギリス史」山川出版社
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